武蔵野美大公開補講@吉祥寺「百年」〜メディアとしての古書店

(私は今年が参加初めてですが)毎年恒例の仲俣暁生さんの武蔵野美大でやっている授業の公開補講に参加してきました。

以下、予習:
http://d.hatena.ne.jp/solar/20080110
http://d.hatena.ne.jp/solar/20080111

memo感を残したかったので、箇条書きにて。

  • この授業の目的:本を単独のオブジェクトとしてではなくて、システム全体の中から本を考える。授業では、文庫や新書のデザインを考えるというのではなくて(美大だけに、考えるっつーとデザインを考えるという方向に行きがちだが、あえて)、じゃその文庫って何、新書って何、から、こういう(「百年」みたいな)本屋までの「何?」を考える授業。
  • 「日本にある本屋さんって、フツウの本屋さんじゃないんだよ」。本屋さんの本は、本屋さんの資産じゃない。

そうか、よく考えたら、本って出版社で値段が印刷してあるよね。っていうことは、本屋さんで値段が決められないってことだ。それは、八百屋さんとか他の商品と比べると確かにおかしいかも。おもちゃとかも箱に値段が印刷してあるけど、その値段で売ってるところってデパートとかそういうところで、普通自分が買い物するようなところだと、その箱に印刷されている値段からいくら下がっているか、っていうのを当たり前に見るなあ、でも、本とか雑誌とかは、そういう風に値段を見ていない自分に気が付きました。

  • 日本にある多くの本屋さんは、新刊書店、なのである。
  • 新刊書店は、クリーニングの白洋舎みたいな本屋さん。そこで何かするんではなくて、本屋はお客さんと本を繋ぐノードにすぎない。町のクリーニング屋さんとはちがう。

もし、本屋さんのシステムが前者みたいなのでオッケーだったら、Amazonみたいなのがなるほど便利だと思います。ノードにはたくさん本があってくれた方が、探している側(消費者)が探し物に見つかる確率が高くなるからね。そして実際、Amazonは便利だし。でも、本は、その、たくさんの本の揃え方が難しいし、実際、欲しい本が手に入らない・入りにくい現象が起こっている。だからオッケーじゃないのです。少なくとも私にとっては。

あっ、タネモトさん(「百年」の店長さん)、日芸出身なんですねー。文藝学科だったそうです。

  • 多くの本屋において「本屋が具体的な本屋として機能する」ということは「どうさばくか、どう売り上げにつなげるか」ということ。タネモトさんが以前バイトをしていた書店では、朝50〜100箱の本が出版社から届いたんだそうだ。それを棚に並べるのが店員の仕事。でも、半分は棚に並ばないで返品となる。だって棚っていうスペースは限られているから。全文は並べられないから。
  • 本屋の棚に変化がない、ということは、(本屋に寄っては)悪いことではない。本屋さんの棚構成が変わらない本屋さんの方が売れている本屋さん。

これが売れてしまったら、もうここで手に入らない、っていうこと、も。うーん、じゃ、どこにいったら自分の欲しい本に出あるんだろうか。そう思うとやっぱり、マスがデカイところ=Amazonに希望を求めてしまうんだけど…。

「百年」は14ツボほどの広さだそうです。白い壁にミントグリーンの書棚は、実は私の理想のセッティング。授業を聴きながら、部屋を見渡してみて、ああこんな部屋に住みたいなあと思っていました。移動本棚は、特注だそうでうす。

  • 古本屋と新刊書店の違いは? タネモトさん曰く、古書は、基本的に同じものを仕込むことができない、もしくは難しい。新刊書点は、基本的に同じ本をたくさん売る書店。膨大な複製メディア。
  • 紙の本って、できたときはデジタルに似ている。でも、それが市場に配送されるところからなんだか不思議なことになる。
  • 自己実現型書店」こういうのが成り立つ環境って、都会だけだよね? 「百年」にある本は全部、タネモトさんの趣味だけで棚構成しているわけではない。タネモトさん曰く、本人趣味は一割くらい、とのこと。

なんで都会だけなのか考えてみると…都会にはたくさん人がいるから、書店店主の「自己実現」に合致するニーズが存在する、可能性がある、ということなんだろうな。しかし、本人趣味は一割くらい、とは驚いた。それでは全然「自己実現」ではないではないのー!と思うのだが。ってことは、普通の書店だと、一割も自己実現できないっていうことなのか…。まあ自分の好きなもの全開でできることなんて、そうない。でも好きが勝るところでやっていくしかない、やっていければいい。

  • 古本屋をやっていく、には:売れる本を置く、仕入れのテクニック、いい仕入れのルートを確保する。書棚は「こんな本をウチは買うから、こんな本あったら売ってね」と本が本を呼ぶ。以前は「値段付け」こそが財産だったけど、今はインターネットがあるので、調べられる。
  • リスクはあるのに決定権がない→商売として面白くない。
  • 「どこの本屋に行っても売っている本はみな同じ」。本を買う魅力、本屋に行く魅力。ふらっと入って、出会うことが均一化されてしまう。

たーしーかーに。でも、私、どの本屋も同じっていうわけじゃなくってやっぱり区別しているんですよね。それはどんな要因か。

  • 書店というメディアスペース。単に本を売ることが目的ではなくて。トークイベントとかもその一例。
  • カフェにちょこっと本を置いて、飲食やって本も置いてあってイベントやってっていうのは、本売るだけじゃやっていけないから。売り上げを出すための飲食。

でも実際、飲食だってそれだけだって大変だから、飲食やったらやっぱ書店に集中できなくなっちゃうよねえ…。

  • 「シティーロード」インターネットがない時代に

改めて、そうか!と思いました。インターネットがない時代に、ああゆうことをやろうとしていた人、やっていた人っていうのはやっぱ、違うわ。そのときに考えていたようなこと、今考えろったって無理だもんね。まあ、その逆も真なり、なんだけど。だからもっともっと中俣さんから学ばないとなー、と思いました。

  • ブック・オフは「きれいな本が安く買える」。前は、文庫が出るまで待ったのに。今の人は文庫になるまでガマンできない。今読みたい。

これは、たぶん、そういう本が多くなっているからではないかなーと。今読まないと!っていう感の本。いわゆるネタな本とか、旬な本とか、話題の本とか。今読まないとたぶん読まないでもよくなっちゃうだろうな、な本。

  • 神保町にあった、地方小出版流通センターの本を扱う書店が潰れた話。月40万円の赤字があったとのこと。この本屋の意義を考えたら…出版業界は、これくらいの金額を補填してあげることはできなかったのか、と。
  • 本屋さんのの持つ機能ってほんとにいろいろあるよね。本屋さんが本屋さんに仕入れに来るとか。
  • 40代くらいの人が「もういいか」って売ってくれる。膨大な過去(の書籍)の中に今を作っていく。
  • 物理的な接点なだけに…一度お店に来てもらうことが大切。イベントで利益は考えていない。
  • 活版印刷の本って、再版する度に字が小さくなっていくんだよね。紙が縮むから。
  • 物としての本の“落差”。『レイテ戦記』大岡昇平なんて、すごい立派な本! 今そういう本はできないのかなあ、と。本って不思議だよね、コンテンツは同じなんだけど、装丁が変わったり社会が変わったり(流行も含む)すると、価値が変わるのが、本。

音楽もそういう傾向があるけど、書籍のその多様さ顕著さは音楽よりも激しい気がします。

それにしても、デザイン情報学っていうのだけで学部が成り立つのか…時代かのう。各メディアを深く学んだ後にじゃあそのメディアを情報として捉えてどう流通したりコミュニケートさせていくかを学ぶ、っていうんじゃないんだねえ。

ところで、書店名の「百年」の由来だけど、私もてっきりマルケスの『百年の孤独』からだと思っていたんだけど、違って、『きらい・じゃないよ―百年まちのビートニクス』内田 栄一より、でした。うーんいつか読む!と思っていたのがここへ来てまた出会ってしまったか。

  • 本は、単体としてではなくて生態としてとらえた方がいいんじゃないか? 本がコンテンツじゃなくて、本はコンテキストである、という捉え方。本は関係性の中でしか生まれ得ないんじゃないか? で、生態系って、一度壊れちゃうと元に戻すのが大変なわけです。
  • 現在の書籍の販売形式って、1920年ごろできた。大量の書籍を大量の人に供給する仕組み。このビジネスモデルが現代に通用するはずがないのだ。

「SWITCH」の地下の本屋さんトークと自作の本の朗読を行うイベント「カタリココ」をやっていた、という方がいらして、発言してくださいました。自分の本を朗読する(しかも人前で)機会のない人たちにその機会を提供するイベント、読者の方はその機会に巡り会えるイベント。

私個人的には、このイベントは危ないなあと思っています。本って、その読み方を、自分の自由にできる良さがあると思っているのです。一旦朗読を聞いちゃうと、その声・調子に縛られちゃうと思うのです。一旦それが脳に焼き付いちゃったら、もう他の声で読めなくなっちゃうんじゃないかなあ、と。

USとかだと、同じ書籍でもたくさん朗読のバージョンがあって、そういう環境だったらまだいいかも。だけど、いろんな朗読聞いても、やっぱり著者さんの朗読っていうのは、強いと思うのです。一回聞いたらそれに縛られちゃうよやっぱり。

かといって、私は朗読を聞くのがきらいではなくて、むしろ好きなんですけどね。iPodに入っているmp3も半分は朗読だし。ほんとうにすばらしい朗読を聞いたときの感動というものは、音楽や演劇や映画や落語とか他のとはまた確実に違う感動があると思います。

  • 東京っていう街の集合体。街のよって全然色が違う。新刊の並びだけでも、街が変わればやっぱりちょっと変わるしね。
  • 本がメディアっていう言い方はあまりよくないかも。雰囲気?かな?なんでこんな形になったのかを考えてみよう。