『別れの唄』

青年団国際演劇交流プロジェクト2007『別れの唄』。日仏合同公演。フランス語上演。
http://www.seinendan.org/jpn/info/info070211.html

東京公演、見にいけなくてがっかりしていたのだけれど、6月8日にNHKの「芸術劇場」で放送してくれました。

どんなお話かというと、

国際結婚をして、長く日本に暮らしていたフランス人の妻が亡くなった。
フランスから葬儀に駆けつけた妻の家族たち。
日本の葬式の様々なしきたりを懸命に説明しようとする日本人の夫と妹。
文化の違いに戸惑いながら、やがて愛する者の死を受け入れていく二つの家族。

(http://www.seinendan.org/jpn/info/info070211.htmlより)

これがすべて。これですべて。

お葬式だ題材の劇と言えば、伊丹十三監督の映画『お葬式』が思い出される。どんなお話かというとー、という捉え方では、『お葬式』は「国際」というキィワードはないものの表現の方向は同じだと思う。しかし、『別れの唄』にはあって『お葬式』にはないテーマがある。それは、

同じ悲しみを悲しんでいるはずなのに、なぜ、私たちは分かり合えないのだろう
同じ悲しみを悲しんでいるはずなのに、なぜ私たちの悲しみ方は、こんなに違うのだろう

(http://www.seinendan.org/jpn/info/info070211.htmlより)

という、思い。わだかまり、という言葉を使うと言い過ぎになっちゃうのではないかなーと思う。もっとストレートな感情だと思うから。主観と客観の間を行ったり来たり出たり入ったりしているうちに、知らない間に涙が出ていた…平田オリザさんの書かれたものは、そんな「あ」という瞬間が、劇中、何度も、心に、波のように去来するものが多いように思う。そして、平田さんの選んだ何気ない言葉、何気ない間は、そんな波を確実に何度も何度も起こす、実に寄りすぐられた言葉たちなのだ。

自分も海外に住んでいたことがあり、その間に冠婚葬祭の席に出席したことがあった。なので、『別れの唄』の中にある"シチュエーション"は共感できるものが多かった。「あー、あんときもこれと同じようなことがあったなあ」とか「そうそう、外国の人ってそうだよねー」とか、思い出しながら見ていた。

しかし、一番強烈に一番深く思い出したのは、先日奥様を亡くされた友人のお葬式に列席したときのことだった。

突然体調を崩されてそのまま帰らぬ人となってしまった、奥様。病気が発覚してから1週間くらいしかなかった。

そのお葬式の席で、喪主である彼は、終始、ぐっと握りしめた両の手を膝の上に置いたままだまってずっと祭壇の1点を、奥様のお写真を眺めていた。手を合わせることもなく、微塵も動くことなく。いつかその握りしめられた拳から血が滲んでくるのではないか思われるほど手の甲に骨が浮き上がっていた。

彼の顔は見えなかったから、彼の表情を伺い知ることはできなかった。彼の背中は、まっすぐで、やっぱり微塵も動いていなかった。彼だけみたら、彼が読経を、自分の最愛の人のために読まれているお経を聞いている人には見えなかった。旅立つ人を見送っている背中には見えなかった。

私は、溢れ出そうになる涙を必死にこらえながら友人の背中を見ていた。なんで泣くんだよ自分、泣いたって何も変わらないだろ、と自分にいいながら。お前が泣いたってなんにも変わらないんだよ、第一いちばん悲しいはずの喪主が泣いてないじゃん! でも、まるで、そうしなけれなならないかのように涙が出てきてしまうのだった。


だからお葬式って、「同じ悲しみを悲しんでいる」んだけど、分かり合うこととか、同じ様に悲しむこととか、そういうことは考えなくてもいいんだなと思った。そういうことはできないんだよ。揃える必要もないんだよ。ときどき、ふと、みんなの気持ちが同調するときがある。気持ちっていうか、ある事実に気が付くときがあるのだ。それは、亡くなったあの人は、今、ここにいないということ。亡くなったあの人とは、もう、会えないということ。そしてみんな、またその事実を自分の中に持って帰って、じわり、じわりと悲しみを悲しむのだ。それぞれの、やり方で。

ああ、そうか、それが、平田さんが寄せた波が最後に崩していった防波堤なのかもしれない、と思った。それに気が付いたとたんに、その防波堤が、音もなく崩れていくのが、聞こえた。