チェルフィッチュ「フリータイム」@SuperDelux

http://chelfitsch.net/next_performance/2_2.html

新訳「オン・ザ・ロード」を読んだとき、あれっこの感じってなんか知ってるな…と思いました。もちろん、何年か前とは言え「路上」は読んでいたので知っているといえば知っているのですが、そうじゃなくて、この感じ。それは「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を読んだときに感じた感じ、でした。「三月の5日間」は「わたしたちに許された特別な時間の終わり」に収められている一編です。「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を手にしたのは、どんな経緯だったかな…覚えていません。だけどそれはすごく刺激的でわくわくさせられるものだったので、「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を読んだときは「三月の5日間」の舞台を見逃したことをとても悔やんだものでした。「フリータイム」のことは偶然、雑誌のなんかイベント紹介コーナーみたいので知ったんだっけ。チケットを取ろうと試みたときは既に休日と夜の部は売り切れちゃっていて、今日の昼の部にしました。

朝はあんなに晴れていたのに、風が出てきて天気が怪しくなってきた中六本木へ急ぎました。予定時間よりもちょっと早く着いてしまった私は、六本木ヒルズの外周を歩いて一周してみたりしました。なんかちょっといろいろ考えたいことがあったので…。

「三月の5日間」の始まりみたいについとSuperDeluxの階段を下りて店内に入るといつものSuperDeluxのイベントの通り、いつもと違った内装になっていました(SuperDeluxはイベントごと内装が全く変る)。空間の真ん中に、水か砂に埋まったように、テーブルトップと椅子の上の方だけが出ていて、その周りを取り囲むようにしてお客さんが座っていました。前情報何もなくその空間に飛び込んだ私は、ぎょっ、としたんだけれど、他のお客さんが普通にしれっとしているので、動揺を隠しつつ対角線上にステージを見渡せる場所に座りました。

開始時間まで、持参した本を読んで待っていました。パンフレットもあったけど、先に読んじゃ無粋でしょ、と思って。

客電が落ちて、ぞろぞろっと、役者さんが“舞台”に出てきて、だらだらっと、お芝居が始まりました。

以下、めちゃめちゃ個人的な感想です。

ほっんと、個人的すぎる感想です。

…あの、登場人物のワカモノの、しゃべり方、「〜でぇー、〜がぁー、〜のぉー、〜でぇー」っていうしゃべり方が、

私 に は 全く 共感 で き な い の で す (-_-;) 

現実感がないのです。リアリティーを感じないのです。

それは私がワカモノでないっていうことも大きいと思うのですが、私は、このしゃべり方が発生して流行り出した頃日本にいなかった、それで、もう全く、このしゃべり方の背景が、このしゃべり方が有するものがわからないのです…。私の中ではこのしゃべり方は、髭男爵っていうコントやっている人たちのしゃべり方なんら変わりはないんです(髭男爵、知ってる?)(同じように、「〜っていうの?」と「〜じゃないですか?」と「(体言、もしくは名詞)?」。よくわかりません…)。本で読んでいるときは、ここ、すごい自分の話し方に翻訳しちゃっていたなあということに気がつきました。

そんなしゃべりが、めっちゃミニマムな設定の中で、登場人物(役)とその語り目線が、入れ替わったり役から素に戻ったようにボトルの水を飲んだりマイクを持ったりする中を進行していきます。断片的にはリアルなんだけど、全体として、どこの国のお話だろうかとか、そんなあり得なさ=おとぎ話っぽさが存在しているような感じでした。

ひとりだけ、このしゃべり方をしていない人がいたのですが、彼女がしゃべっているときだけ、皮膚にびりびりくるようなリアル感がありました。なんとか劇中空間と自分をつなぎ止めようとしていた私が、そう感じさせていたのかもしれません。

そして、これだけ設定がミニマムだと、そこにあるもの、その動き、みんな、たくさんある無駄から削ぎ落とされて残ったものなんだろうな、と推測するわけです、すると、えそこでなんで音するの?とか、えそこでなんでふらつくの?とか、そこで髪触るの意味あるの?とか、いちいち引っかかってしまって、どんどん自分の中のリアルから遠くなってしまうのでした (´ヘ`;)  身体の使い方も、合気道とかみたいにぎりぎりまで削ぎ落とされたものでもないらしい印象を受けました。そんなんで引っかかってばかりでした。

しかし、というか、だからこそ、すごく客観的に登場人物を眺めることができ、舞台上で起こっていた/起こっていることを、自分の中に、自分で翻訳して移すことができたように思います。なので、もう私の中に起ったことは、なにもこのお芝居でなくてもよかったことなのかも…。

登場人物のひとりひとりが、自分の身近にいるいるっていうような人とか、今日の帰りは“お一人様”でファミレスに寄って帰ってみたのですが(ただし160 円のコーヒーじゃなくって720円の豚トロ定食を食べましたが)そのファミレスをちょっとぐるっと見渡してみればあーあの人ってさっきの演劇に出てた人だよマジで!みたいに、リアリティばりばりでした。実際、私も友人に、朝出社前にドトールに必ず寄って、っていう人が、いるので。でも彼女が毎朝ドトールで何をしているのかは聞いた事ないんですけど。

「フリータイム」。私にとってはとても不自由な時間でした。舞台上のおねえさんおにいさんも、不自由なんじゃないかな、と思いました。え、君たち、このまんまでいいの?と聞きたくなってしまうくらい。でも、彼らは、ふらっとここへ来て、そしてちゃんとどこかへ行ってしまいました。だから彼らは自由なんじゃないかなあと思います。自由だったんじゃないかなあと思います。そこにもやっぱり、共感できませんでした。

「フリータイム」を過ごした、というよりも、「フリータイム」がそこにあるということが重要だったんだ。誰かが、意図してか意図せずにか作り出した「はいこれがひとつのある場ですよ」というひずみが、次々といろんな人の中にひずみを与えていく。のらりくらりとした人たちは、それでくしゃっと壊れてしまうことは、ない、ひずんだらひずんだだけ、ひずんだ方向に、動いていく。それだけ。

そしてやっぱり「30分で大丈夫」なんだ、と、“収束”した瞬間、そこに、そこだけに、一瞬私のリアルが見えました。

これとは別に特筆しておきたいことが、あって、それはパンフレットに紹介されている役者さんの写真がすごくいい!ということ。ページを繰る度にボディーブローを食らうように胸に腹に響く像でした。そこに語られている言葉も、強く、きりりとしていて、喉を絞められているような気さえする言葉たちでした。

うむう…これがお芝居から感じられなくて残念でした。私がワカモノならわかったのかな… (・_・、)

あと、これ英語で聞いたら、また相当面白いことになるんじゃないかなと思いました。こういうだらだらしゃべりって、けっこう英語合うような、気が…。