今の私の『Coyote』について

Coyote』をリリース日の夜にタワレコ@渋谷で手に入れた。ウチに帰ってきてから何回か聞いて、私はちょっと長いメールを2つ書いてそれぞれの送り先にそのメールを送って、その後は『Coyote』のことについて言葉にするのをやめた。『Coyote』のことについて一番話をしたかった人、に、もう話してしまったのだから。

でも今回は、もう一人、話しておきたい人がいた。それは、未来の自分。もしかしたら未来の自分は、最初に『Coyote』を聞いたときのことを忘れてしまうかもしれなかったのだ。『Coyote』と出会ったときのことを忘れてしまった私は、次に『Coyote』に出会ったとき以前と同じことを思うのだろうか? 思えるのだろうか? 後で、それを全く覚えていないとわかったときどんな気持ちになるのだろう? それを体験しなかった、という気持ちと、それを体験したはずなのに覚えていないっていう気持ちとは、同じではないはず。失われたって気がついたとき、私はどんな気持ちになるのだろう?

この文章を最後に修正したのは、16日の明け方近くになっていた。先の、『Coyote』のことについてのメールのお返事をもらい、そのメールにお返事を書いてから、まとめたのだった。


COYOTE(初回限定盤)(DVD付)

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私はいつも、佐野さんの新しいアルバムを聞くと、「このアルバムが今までの中で一番いい!」と思う。今回もそう思った。今まで、その理由について考えたことはなかった。だから今回、考えてみることにした。

そのひとつは、佐野さんの歌には「今」が織り込まれているからだと思ったことがある。私は、今を生きている、だから私は佐野さんの歌に共感というか共鳴のようなものを感じられるからではないかなと思っていた。

でも、最近、そうじゃないかも、と思う。「今」を一緒に生きている人の間でも、共感できなかったり共鳴できないことがたくさんあると思うようになった。

そうか、「今」だけじゃだめなんだ。「今」だけじゃ分かり合えないことがたくさんあるんだ。「今」に至るまで、私が何を見て、何を聞いて、何を食べて、どんな話をして、っていう、何をして来たかということが、共感・共鳴するのだ、と。それはその人と全く同じ体験でなくてもいい。

「今」を佐野さんが食べて、佐野さんは出したもの=言葉とメロディ、それを、やっぱり「今」を食べている私・私たちは、どう感じるのか。感じるのか、感じられないのか。佐野さんの新しい歌を始めて聞くとき私はいつも思います。「佐野さんはこう言っているけど、私はどう思うの?」佐野さんがどういう意図でこんな言葉を選んだのか、こんなメロディーや演奏する楽器を選んだのか、よりも。

佐野さんは、今回のアルバムを作っているときにまず思ったことは、参加アーティストのみんなが喜んでくれるものを作りたいと思ったことだ、と、AppleStore銀座でのトークショー*1で言っていた。

Coyote』を聞いて、佐野さん、それは、もう、充分、達成されたよ、と思った。

自分たちのバンドやプロジェクトじゃ絶対ないような歌詞とかコードとか、つまりそれは、佐野さんの言葉と佐野さんの曲なんだけど、それを、歌ったり演奏したりしているその音が、借りてきたネコみたいでも誰かにコントロールされているのでもなくひとりひとりちゃんとわかる音になっていて、なんだか、高桑さん・深沼さん・小松さんっぽいけど高桑さん・深沼さん・小松さんっぽくない。音楽でこういう個性を表現することができるのだなあと思った。レコーディングはどんなにか楽しかっただろうなあ。

そして、それぞれのバンドやプロジェクトのファンでもある私は、彼らが、このClass of Coyoteで学んだことを自分たちのfieldに持ち帰ってそして発揮してくれることを、とてもとても楽しみにしていたり、するのだ。

高桑さんも深沼さんも小松さんも、私たちと同じ時の中で、そう「元春レイディオショー」なんか聞いてオトナになって、ときどき彼らが話す「オレと佐野さん」な話には私もいくつか、覚えがあって、あーおんなじだったんだなあー!と嬉しくなったり懐かしくなったりすることがある。

あのとき、みなさん、いつかこうして佐野元春と一緒に演奏することになるなんて思ったことがあったかなあ。

今回のこの『Coyote』は、ボクらの代表!みたいな3人が、あのときのボクらの気持ちを、佐野さんと一緒に歌を紡いでいくことに使ってくれているみたいで、なんだかありがとうっていう気持ちになった。こんなミュージシャンを育ててくれてありがとう、佐野さん。佐野さんをがっつり支えてくれてありがとう、すてきな3にんぐみ。そしてそれらを、私たちに分けてくれて、還してくれて、ありがとう。

今回『Coyote』を聞いて真っ先に思ったことは、そういう、「今」を生きて、「今」の音楽にふれることができる喜びでした。本当に、佐野さんと同じ時間を、そしてちょっとだけ後ろから生きてこれて、よかったなあと思いました。

1998年ごろだったかな、アメリカからお正月か何かで帰国した際に日本の音楽を聞いて私がとても疲れたことは、その時、日本の歌は、どれもこれも、「がんばれ」「負けるな」「君は一人じゃない」みたいな言葉ばかりで、その割には聞いてもぜんぜんがんばる気持ちにも負けない気持ちにもなれなくて、がっかりした、というか、がっかりを通り越して疲れてしまったのを覚えている。(そのころの私は、有名無名のライブにちょこちょこ通い、できるだけたくさんのフェスに足を運んでいた。ウッドストック再来、とかね。)

それはなぜだったのだろうか…後になって、あのときそんな歌を歌っている人たち自身が実は、「がんばれ」「負けるな」「君は一人じゃない」って、自分に歌っていたのではないかな、と思った。私は今こんな気持ちだからきっと歌を聞く人たちもこんな気持ちなんだろう、と思って、それを歌っていたのではないかな、と。もしくは、自分が自分に歌って欲しい歌を歌っていたのかもしれない、と思った。

私は、佐野さんの歌に、そういうのを感じたことがない。佐野さんの言葉にちょっと背中を押してもらったり、涙が出そうになったのをひっこめてもらったりしたことは、あるけれど、佐野さんの歌には、佐野さんがいて、佐野さんは誰かに歌っている、と感じるものがある。例え「オレ」とか歌っていても。そして、佐野さんがそう言っているんだからそれはうそじゃないなと思わせる何かが、ある気がする。それが何なの私にはわからないけど… 言葉と曲が、まるでもうずっと前からそこにあって、佐野さんはいつもそう言っていて、それがちょっと風に吹かれたみたいに曲に乗って届いてきた、みたいな、そんな感じがするのだ。

今度の『Coyote』は、佐野さんからも客観的な位置にいるコヨーテ氏が佐野さんから汲み取った言葉を曲を佐野さんに還しているみたいで、なんだか、佐野さんselfとはまた違った言葉感とかメロディとかがあるみたいな気がする。この気持ちは、「エンプティ・ハンズ」を始めて聞いたときにちょっと似ていると思った。佐野さんじゃないみたいな(そうか、コヨーテ氏だからね)、でもこの声とかこのギターとかこのピアノは佐野さんだし(当たり前だけど)、でもそれがすごくすごく佐野さんっぽいなと思った。

それが、今の、佐野さんだと思った。

好きな食べ物でも好きな映画でも、なにかひとつを挙げるの、私はとても苦手だ。だからってわけじゃないけど『Coyote』の中で好きなのをひとつ挙げるのって難しい。

でも、うーん、そうだなあ、「Us」「夜空の果てまで」の並びが、2曲そろってが、今は、一番好きだ。

「Us」の中でとても象徴的なのは"Why can't we be friends?"というフレーズだ。佐野さんの歌にしては珍しく、ひとつのフレーズがまるまる英語。そして「Us」の中でここだけが英語。"友達になれたらいいな"とか"友達になりたい"っても歌っているんだけど。

実は、"Why can't we be friends?"は私のマジック・ワードなのだ。『ジャングル・ブック』の動物たちのおまじないの言葉*2のようなものなのだ。アメリカに行って英語を習った時からずっと、私はこの言葉が好だ。アメリカにいるときに、私は、ほかの人よりもずっとたくさん"Why can't we be friends?"を使ったような気がする。(そんな私だから"Why can't we be friends?"にまつわるエピソードがいっぱいあって、そのうち2つは一生忘れないと思うエピソードがあるんだけど、それはまた別の機会に。)("Why can't we be friends?"と言えばSmash Mouthの有名が楽曲があって、M.H.S.C.*3に参加していたとき、ガキ共とロッジからMt.Hoodへのイエロー・バスでは必ずこの歌を合唱したものだ。もう"Why can't we be friends?"連呼しまくりな歌詞なんだよね。あれも忘れ難い"Why can't we be friends?"の思い出だ。)

そして、このマジック・ワードは実は、佐野さんに教えてもらったことなんだけどね。

だから、"Why can't we be friends?"が、歌詞で、それも歌の最後に、佐野さんと深沼さんの声で聞こえたときにはすごくびっくりした。
その響きがとても美しくて、美しくて。私はこれから"Why can't we be friends?"って言葉を思い出すときに、もう、このメロディーとこの声で思い出すんだろうな。それってすごい幸せだなと思った。今日まで"Why can't we be friends?"って信じてきてよかったと、心から思った。

私は、"Why can't we be friends?"は、佐野さんの言う「人は信じられる」っていう言葉の訳語なんだと思う。だから"友達になれたらいいな"とか"友達になりたい"って歌っているけどやっぱり"Why can't we be friends?"とも歌っているんだと思う。「Us」の中で佐野さんはいろいろ、あーあ、なことを歌っている。「今」の、あーあ、なこと。それでも佐野さんは、それに目をつぶったりしないし、例えば夜中のドジなメールを他のことと比べたりしない。みんな「今」として受け止めて、そして"Us"な距離にいる人に、言うのだ、"Why can't we be friends?"と。

そんな思いを支えるこの曲のグルーヴが、また特徴的で。すごく高桑さん・深沼さん・小松さんっぽい。すごくひとりひとりがはっきりしている。この曲はCDに収められた時点で完成して収められていると思うんだけど、この1曲の中で成長し続けているような気がする。最後の"Why can't we be friends?"に向かってむくむくとうねって育っているような気がするのだ。初めて聞いたとき、すごいどきどきした。もう何回も聞いた今も、まだどきどきする。

帰国してから私は"Why can't we be friends?"という言葉を使う機会はめっきり減った。というか、全然使っていない。次にどんな場面で私はこの言葉を口にするのだろうか? できればそれはこんな場面であって欲しいなあ、とか、この人にだといいなあ、というのが、実はあるんだけど、それもまた別なお話。

「Us」でどきどきした気持ちのまま「夜空の果てまで」を聞く。不思議と、この曲を聞いているときに人の顔が思い浮かばない。変わりに、人の営み、が思い浮かぶ。仕草であったりとか、建物みたいな物であるときも、ある。それが、なんだか私には、夜空の果てっていうか、ずっとその向こうがあるみたいな気がして、不思議だけど、いいなあと、思う。曲の出だしのとてもステキなコーラスがあまりにも超人すぎるからかもしれない。言葉さえも吹っ飛んでしまうときもある。不思議だ。

ええと、他には…って書いて言ったらきっと、朝になっても私は書き続けていると思う。だから、もうその他のは、その時の私に任せることにする。だって今でも、毎回聞く度に違う事を思ったりするし、日によって繰り返して聞きたい曲が変わったり、するから。

これが、今の私の『Coyote』について、です。

*1:http://www.apple.com/jp/articles/interviews/sanomotoharu/

*2:「きみとぼく ぼくときみには おなじ血が」

*3:http://www.mthood.biz/