Japanese Cinema Eclectics vol.5

Japanese Cinema Eclectics vol.5
〜日本映画の岐路に捧げるシリーズ〜
ドナルド・リッチーとスーパーデラックスがお届けするニューフィルム・シリーズの第5回目。
Sponsored by Institute of Contemporary Japanese Studies (TUJ)



上映:
憂国
1965年 三島由紀夫監督作品 (28分/モノクロ)
出演: 三島由紀夫、鶴岡淑子
演出: 堂本正樹



10月4日(水)@ SuperDeluxe(六本木)
http://www.super-deluxe.com/schedule/schedule.php?lang=JP

このレクチャーシリーズの解説文:
https://www.tuj.ac.jp/newsite/main/news/specialevents/events_2006/20060913_icjs.html

さあ安倍新体制だ憲法改正だとか言っているところにタイムリーに来たね憂国だよ憂国! つかさ英訳だとPatriotismになっているけどそれって愛国じゃね? 愛国と憂国はびみょーに違うよね! そこいらへんはどうなのリッチー先生!

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さて私は、一回り以上年下の友人、なっちゃんとレクチャーに参加した。なっちゃんは、先に行って席を取っていてくれた。スクリーンのド真ん前の席だった。ありがとう>なっちゃん

観客は、外国人が8割日本人2割、という感じだった。ほとんどがテンプル大学の生徒かその知り合い、なのかな、あまりアナウンスされていなかったので。床に座るスペースもある館内で、始まるまで、皆がおしゃべりに興じたり軽食や飲み物を取ったりする中で、レクチャーが始まった。

まず会の主催者の挨拶があった後、リッチー先生から、簡単な、今日見る映画についての説明があった。

簡単な「憂国」についての説明…「憂国」は、三島由起夫が監督・脚本・主演全てを行い、後の自決を予感させるようなシーンがあることで有名な映画。三島の死後夫人の希望によりフィルムが全て焼却され、ポジからコピって作られた海外版以外現存しないとされてきた。管理も品質もあまり良くないものが。ところが、だ、2005年にオリジナルのネガフィルムの発見された!というニュースが報じられた。三島と共同でこの映画を制作した藤井浩明が、ネガフィルムだけは焼かないように夫人に頼みこみ、夫人が茶箱に入れて保存していたというのだ。夫人も、もう二度と見たくない映画とはいえ、それをなかったことにしてしまうのはさすがに忍びなかったのかもしれない。それにこの映画、三島由起夫主演、なのだから。

ストーリー…武山中尉の友人達が、2・26事件に決起する。武山中尉は友人たちの所属する反乱軍を勅命によって討たざるをえない状況に立たされる。軍人としての自分と国を愛する友と志を同じく有りたい自分との狭間にあって、武山中尉は自決をもって両義に報いようとする。そして武山中尉は妻と共に切腹する。「憂国」は、その過程を描いた作品。

さて。リッチー先生は、この映画が完成したとき、なんと三島由紀夫と試写を行っている、とのこと。そのとき、三島は音楽(「トリスタンとイゾルデ」)が入ったバージョンを初めて見たのだらしい。めちゃめちゃ喜んでいる風じゃなく「まあ、悪くないね」くらいしか言わなかったけど、気に入っているふうだった、と言っていた。上記のことがらの他に、そのころの日本の様子とか、三島由起夫とはどんな人か、などの説明があった。最後に、リッチー先生は、さらりと「あらかじめ言っておくけど、この映画にはかなりショッキングなシーンがありますよ」と、付け加えるように言って、客電が落ちて、上映開始となった。

場は、能楽堂にあつらえてあり、セットは必要最小限のものだけにしたものと思われた。そのセットのひとつが、「至誠」と書かれた掛け軸で。おそらくこれは三島由紀夫が書いたものだろう。荒っぽくて「誠」の字が大きい。一字一字は達筆なのだが、全体として見るとひどく不格好だ。

「至誠」の文字を見たとき、どきっとした。我が高校の校訓にこの言葉が入っているのだ。「克己 心身を練れ」「勤勉 実力を養え」「至誠 事にあたれ」。なんとも漢な校訓ですよね。元男子校故、かなあと。

映画は白黒、セリフなし。最初と途中にト書きが入る。巻物に書かれたト書きは、これもおそらく、三島由紀夫の手によるもので、巻物をとく手も三島由紀夫の手だろう。それがまた、じりじりと、妙な緊張感を生むのだった。

武山中尉演じる三島由紀夫と、その妻麗子演じる鶴岡淑子の、固く凛とした佇まいが、ただ立っているだけでも居心地が悪くなるような緊張感を生んでいるようだった。話のスジを先に知ってしまっているっていうのもあるけど、ああこれから何か始まる、という予感、それも不気味な予感がばりばり漂ってくるのだった。

三島由紀夫と鶴岡淑子の身体が、ため息がでるほど素晴らしかった。美しかった。三島由紀夫はボディビルキチ○イと聞いていたけど、鶴岡淑子の身体もよく締まっていてアスリートみたいだった。この時代、どっちかっていうと今よりもぽっちゃりした女性が美しいとされていただろうに、鶴岡さんの身体には丸みというかそういう意味でのオンナらしさはなかった。そんな二人だから、三島と鶴岡の絡みは、エッチっぽいというよりは一部の隙もない彫刻のようにただ美がそこにある、というような感じだった。

その後、武山中尉が割腹し、麗子が介錯しそして自害するまでの一連は、能の舞か、お茶会の始終を見ているようだった。淡々と、何も無駄な動きなく全てが進んでいく。良く鍛えられた腹に刃が立てられる。美しい。全身の力を込めて刃を引く。美しい。真っ赤な血が床にしたたる。美しい。痛みに耐え身体を振るわし体裁を整える。美しい。美しい。

やがて映画が終わり、場内が明るくなっても、重くしんとした空気がそこかしこに残っていた。リッチー先生がスクリーン前に表れる。さあ、みんなのお楽しみの時間がやってきた。「Question?」とリッチー先生が切り出すと、もう、わさわさと手が挙がった。

(あとでなっちゃんと話したのだけれど)我々が予想していた反応は、ばっちり、あった。すなわち、切腹シーンのスプラッターにショーゲキを受けちゃってパニクっちゃうっていう反応。なんであんなに克明に描写するのかわからない!前半はとてもロマンチックだったのに!みたいな。動かないし表情ないし、何考えているかわからない。作者は何を言いたかったのかー!という人もいた。途中で中座してしまった人も何人かいたなあ。

質問コーナーの白眉は、大学生くらいの、日本人の女の子と英語を話す外国人のカップルの、女の子がリッチー先生にした質問。その劇場では、なんの説明もなく英語でコミュニケーションがなされていたのだが、その女の子は“暗黙の了解”を破って、日本語でリッチー先生に質問した。映画の中では、奥さんがとても重要な役割をしているのだけれど、奥さんがなんか夫に従っているばかりみたいに見える、三島由紀夫は女性を尊敬していたのだろうか、それとも逆だったのだろうか、と。シーンとした空気が張りつめる中(^_^;)、彼氏が、とても素晴らしい英語に翻訳し、リッチー先生に質問し直した。その後もその彼は、ずーっと、彼女に会場でのやり取りを日本語で説明してあげていた。完璧な日本語だった。

確かに切腹シーンはクリーピーではあったけど、それよりも、三島と鶴岡の身体の美しさと所作のミニマルに圧倒されて、臓物が大量と血と一緒に腹からどばばばっと溢れ出るところもぼーーーっと追ってしまった。数秒後経ってから「…うわ、すげーな…」とぼーーーっと思い出されるような感じだった。様式美に感動していたとでも言えばいいのか。

三島がもうちょっと演技に長けていたら、この映画はとんでもない映画になっていただろうな、と思った。ミニマルな動きを演技するのって、難しいと思う。映画だと、多少カメラアングルや編集に助けられるところがあるけど、それでももうちょっと演技が極っていたら…このあいだの萬斎のように…クリーピーさに心を動かされてしまった人々の心も凍らせることができたのではないか、と思った。

さて、リッチー先生の総論は「実際のところ、真実は三島でなければわからない」ということ。そして、それぞれをどう取るか、ということは、個人のこれまでの体験や考え方によって違いがあり、それはそれで是も非もできない、ということだった。「憂国」で、原作、脚本、演出、主演を行った三島だが、彼は素晴らしいキャスティング・ディレクターでもあるのだ、と。この映画を見た人の人生に、何らかの影響を及ぼすのだ、と。リッチー先生も「憂国」に会わなかったら今日のような人生を歩んでいなかっただろう、と行った。あなたたちは今日この映画を忘れない、そしてそれは、これからのあなたの人生に影響を及ぼすだろう、と語った。

そうだね、と、私となっちゃんは話をしながら、六本木でお茶して帰った。久しぶりになっちゃんとたくさん話した。とても楽しい時間だった。まだこれから社会に出て行くなっちゃん。まだいろいろな道を決めかねているなっちゃん。いいんだよいんだよ、楽しみだね、なっちゃん

さあ、三島采配は、私の人生をどう変えるか。とりあえず、あれだ、もし私が出産することがあったら、その瞬間には「トリスタンとイゾルデ」をかけてもらおうと思った。