「敦ー山月記・名人伝ー」

夜、世田谷パブリックシアターに「敦ー山月記名人伝ー」を観劇しに行った。ちなみに前回の講演(2005年9月)は見にいっていない。(仕事が忙しくて行けなかった。)

「再演」される「現代劇」。この言葉に違和感を覚えるほど、「再演」される「現代劇」は、ない。そこに、当劇場芸術監督である野村萬斎が挑んだと言ってもいいのではないか。
狂言の語りや謡、お囃子などの手法と、照明やスクリーンや舞台に使われるマテリアルや、漢字ではなく「漢字キャラクター」として認識する感覚が、ひとつのステージの上で重なりひとつの物語を紡いでいく様はとても現代的だった。このお芝居の命題でもある「生きるとは何か」を、今、今想うということを具現化するのに、身体芸術という手法はこんなにも鮮やかで生き生きしてて、今を印象付けることができるのだな、と思った。

それにしても、身体に技術というか力を宿している人はすごいね! 野村万作の虎が己を憂いて泣く様と鳴く様=鼓と尺八とが呼応し合うところ、もう自分、哀しくて泣いているのか素晴らしくて泣いているのかわからなかったよ。弓道はおろか人生のすべてを悟り切って無と化した人の無と化した様をそこに座っているだけで表現した野村万之介。ほんとに死んでいるのかと思った(^_^;) 

野村萬斎のキャラクターがまたよいんだよね。日本の古典芸能がこの人物を得たことはほんとうにラッキーだと思う。それを上手く取り入れた「名人伝」は、現代と能狂言の時代を行ったり来たりするような演出も生きており、面白かった。それぞれの演者が、その行ったり来たりを表現する。それが演者みなぶれがなくできる、というのもすごかった。

先日、ざわつく神社で見たお神楽を見たときにも思ったのだけれど、21世紀に生まれてよかったなあって思う。今だからこそ感じるこの過去未来の一体感、私は好きだ。

中島敦の「山月記」、それから「弟子」には、想い出がある。

山月記」に関しては、私は少なくとも21回は読んでいるのだ。

高校の時、何年のときだったかな、国語の試験でいわゆる「赤点」を取ったときのこと。答案用紙が返却された後、早速国語の先生に謁見しにいった。つまり、そのままでは許されないので追試とか余分な課題とかなんとか、まあやらなくちゃいけないんで、その処遇を相談しに行ったのである。

国語の先生は、O先生といい、のぼーっとした人で。授業中もあまり生徒と目を合わさず、黒板と教科書と、窓の外とを交互に眺めて淡々と授業をするよな先生だった。

職員室の先生の机のところに行き、お伺いを立てると、先生はやっぱり机の上の書き物から目を離さず、今回の試験範囲にあった「山月記」を20回読んできなさい、と言った。20回読んで、それから?と聞くと、「20回読んだらまた来なさい」。えーと、読むだけでいいんですか?「うん」。あの、先生はどうやって私がちゃんとこの課題をやったどうか判断するんですか?あの例えば暗唱するとか?「はは。そんなことはしないよ。するなら先に言うよ。20回読んでくればいい。20回読んだかどうかをどうやって判断するかって? それはそのとき解るから。心配ない」。先生は、この日までに読んできなさいという期日を私に告げた。私は職員室を出た。

読むだけ? 読むだけでいいの? 追試とかなんとかとか、なしなの? そんなバカなと思ったのもつかの間、0.3秒後にはこのコンテキストを「ラッキー♪何もしなくていいんだー」と解釈し、私は何もしなかった。しないまま期日の前の日を迎えた。その日は、いつもの通りに授業に出て、部活をやって、バンドの練習に参加して、帰りに喫茶店で友達とお茶して、帰宅して夕飯を食べて風呂に入って、宿題をやるだけやって、はたと考えた。ほんとうに何もしないまま明日を迎えちゃっていいのかな? 先生は、解るって言っていたぞ…。

夜中零時を回っていたと思う。私は教科書を開いて「山月記」を読み始めた。1回読むごとに、最後のページのすみっこに「正」の字の棒を一本づつ書きながら。

早く読んで寝よう、早く読んで寝よう。今何回かな、まだ3回か…、そんなことを思いながら読み進めていった。何回目からか、もう今どこを読んでいて話がどんな展開になっているのかなんてことはどうでもよくなり、ただただ言葉を目で追って行くだけの作業になってきた。それがまた辛かった。目で言葉を追うだけ、って、辛いのだ。気がつくと私は音読していた。低い声が耳の奥で響く。ずっと響く。終らずに途切れずに響いていく。

喉の痛みが発声を遮り、その弾みで私は顔を上げた。私の机の前は一面が窓になっている、その窓の向こうの闇の中が、一瞬、ヴヴン…と揺れた気がした。

再び教科書に目を落とす。自然に声が出た。言葉を発した瞬間、その言葉が、とてもリアルに身体に突き刺さるような感覚を覚えた。発声が、言葉が、発せられる度に脳に言葉として認識される度に、ぐさぐさぐさぐさ、突き刺さってくる。なんだこれは!と思った。夢中で音読した。

翌日、職員室に行き、O先生に、20回読みました、と言った。先生は私の顔を見て、にやりと笑い「そうですか」と言った。そして続けて「じゃあ、明日までに、あと5回、読んで来てください」と言った。

その晩、私は、一度だけ「山月記」を音読した。

翌日、職員室に行き、O先生の机のところに行った。私は、先生、一度だけ読んで来ました、と言った。先生は机の上の書き物から目を離さずに「そうですか」と言い、「これでこの課題は終了です。次の試験はがんばってください」と言った。え、いいんですか?と、ちょっと面食らった私が言うと、先生は顔を上げた。先生と視線が合った瞬間、私は眼に思い切り力を入れていたのではないかと思う。この人が私に「山月記」を20回読ませた意図は、なんだ? そしてもう5回読ませようと思った意図は、なんだ? それは私の得た意とは、異なるものなのか、どうなのか!

先生は私の顔を見て言った、「いいんだ、キミは私の言ったことをよく理解してくれたから、いいんだ。キミだってこれでいいと思ったから、そうしたんでしょう?」

言葉。言葉を解すること。言葉を使って伝えること。言葉を使って意思を交わすこと。これらを学ぶことが国語を学ぶ意味だとしたら、そしてこれを果たすことが国語教師の使命だとしたら、彼は間違いなく、私に国語を理解せしめた国語の教師である。ツールとしての言語を身につけるための方法を提示してくださった、先生である。

その後のある日、私はO先生に呼び止められた。「キミは、中島敦の「弟子」というお話を知っているかい?」。いいえ。「そうか。…そのお話に出てくる子路という人物がキミによく似ていると思ってねえ。「山月記」の文庫本に入っている。読んでみるといい」。早速その文庫本を求めて、読んでみた。

この子路という人物、孔子の弟子、なのだが、これがはちゃめちゃな男で。孔子先生に噛み付く、噛み付く。しかも基本はブルース・フォース・アタック(^_^;) こんな愚かな弟子が先生にかなうはずはなく、いつも玉砕。彼は一瞬しょぼんと反省するも、すぐに起き上がって、性懲りもなくまた先生に噛み付くのだった。他の弟子たちは良い迷惑だと思いつつもこの男をどこか憎みきれない。先生もためいきをつきつつ根気よく弟子に教えを説き続ける。

へえ、私は、O先生にはこんなふうに見えているんだー、と思った。というか、私は、高校生の私はこのまんまだった。成績は悪かったが、授業中は先生を質問攻めにするなど五月蝿かった(^_^;) 勉強はしなかったけど、部活だ課外活動だにはえらく積極的に取り組んでいた。生徒会などにも関わり、時には学校側と対立したりした。いろんなことを、体力と勢いで解決していた。他の部分は、他の人に、迷惑をいっぱいかけながら、ね(^_^;)

子路は、最後に、大権力に噛み付いて、命を落とす。

最初にこのお話を読んだときは、あははこいつ私に似てるなあ、と思いながら楽しく読んでいたところ、最後にがつんときた。私もいつかは、まあ命は落とさないにしても、叩きのめされる日が来るのかな、と思った。O先生は、暗に私に、何かを心得ておくように示唆してくれたのかな、と思った。私の爆裂高校生活はその後も勢いを落とすことはなかったし、私は死ななかった。それは、思うに、心のすみっこに、もしかしたら子路のような目に遭うかもしれないぞ、気をつけろ自分、と、常に思えていたからこそかもしれない。

今、高校生活を振り返ってみると、おおよそ高校時代にやるべきことは全部やった、と思っている。どれもこれも人並み以上に。あの頃自分がやっていたことを考えると、1日が24時間であることが信じがたいほど、いろんなことをやっていた。勉強以外は。今考えると、もっと勉強しておけばよかったかなあ、とも思うんだけどね。

O先生が私のクラスの担任であったことはなかった。しかし私は、O先生は確かに私の教師であった、と思う。高校時代にO先生に出会えてよかった、と、思う。

「敦ー山月記名人伝ー」を見たことは、O先生に久しぶりに手紙でもしたためる機会になり得る絶好の題材であるのだが、残念ながら、それは、できない。

O先生は、私が高校を卒業して数年後に急逝された。

観劇中、何度も、ああ先生が生きておられたら、今感じているこの新しい解釈を先生にお話したかったなあ、と、何度も何度も思った。思うたび、それはかなわないのだ、という事を、思わなければならない、その事実が辛かった。

虎と化した李陵の泣き声が、沁みた。