PETIT PAVILLONのミニコンサート@カフェano

ぴっかぴかによく晴れた日曜日の午後、「PETIT PAVILLON(プチ・パヴィヨン)」のミニコンサート@カフェanoに行ってきました。PETIT PAVILLONはクラリネット・アンサンブルです。メンバーは全員、これまたぴっかぴかの元気のよい女の子。小さなチョウチョ、っていうよりも、あの、ワンコのパピヨンを連想しちゃうよな子たちです。
http://blog.goo.ne.jp/petitpavillon/

私は芸術系の大学に通っていました。そこには、画家になりたい人とか、舞踏家になりたい人、ピアニストになりたい人、テレビドラマのディレクターになりたい人、カメラマンになりたい人、映画監督になりたい人、小説家になりたい人、などなどがいました。そういう人が毎年毎年、それぞれにつき、何十人も新たにやってくるところなのですが、そこを出るころその夢をかなえられるような人になれる人は実はそんなに多くありません。4年間で、みんな、それになるにはどうしたらよいかよりも、それになることがどんなに難しいかを、知ってしまったりするのです。そして、4年後、自分が大学で学んでいたことやそれまで生活の全てをかけて没頭していた世界・分野とは別な仕事に就いたりして、学校から出ていくのです。

だからだから、世間のそこかしこには、かつて寝食を忘れてキャンパスに向かっていた人だとか、お箸も持てないくらいに両手両腕を腱鞘炎にしながらピアノを弾いていた人だとか、小指の爪がすり切れて斜めになるまで絵コンテを書いた人とか、一日に一度も太陽を見ることなく地下室に篭ってフイルムを現像していた人だとかが、いるはずなのです。

まるでそんな事はなかったかのような顔をして、普通に生活しているはずなのです。

今、学生時代に学んだことで身を立てている人と、そうなれなかった人の違いとか差とかが何だったのか、それはまあどうでもよいことかなと思います。それがわかったところで実践できるわけではないことだと思うからです。それに、画家になれなかった人、舞踏家になれなかった人、ピアニストになれなかった人が、画家になるために、舞踏家になるために、ピアニストになるためにそこで過ごした4年間は無駄だったのかというと、これははっきりと言えることですが、決して無駄ではなかったと思えるからです。たとえ他の分野の仕事に就くことになったとしても、あの4年間がなかったら、今の自分はないし、今のこの選択はあり得なかったと思えます。あの、怒濤の4年間は、自分の人生に確かに必要な時間だったのだと、たとえ今私は、露出計を使って露出を切ることがなくても、フイルムの現像温度を気にすることがなくっても、思うのです。

あの4年間で学んだことを、一言で表すのは難しいです。最近自分が反芻している言葉をひとつ上げるとするなら、「全てのディテールには神が宿っている。そしてその神は、全ての活動に通ず」ということかなと思います。

プチ・パヴィちゃんたちは、それこそ4年間、クラリネットの練習を本気でやってきたのだ。そして学校卒業後も師匠について勉強し、演奏活動をしている。プチ・パヴィちゃんたちはクラリネットと生きていこうと決めたのだ。プチ・パヴィちゃんたちはクラリネットで生きていこうと決めたのだ。

いやもしかしたら、そんな選択や決断なんて、しなったのかもしれないです。「これで生きていく」なんて言葉が似つかわしくないくらい、プチ・パヴィちゃんたちは軽やかに見えたから。先日、NHKトップランナー」という番組に指揮者の金聖響さんが出ていて、言っていたのだけれど、指揮者になれるかどうかということは考えたことはなかったそうです。もう指揮者になるということは決まっていることとしてあって、そうなるにはどうすればいいかだけを考えたのだんだそうです。成れる人、っていうのは、そういうものなのかもしれませんね。プチ・パヴィちゃんたちを見ていると、もう、この先クラリネットと一緒にいけば楽しいことしか待っていない!ように見えました。わかってます、わかってます、現実はそんなもんじゃないってこと。でもね、そういうふうにみえちゃうのです。そうしてこっちも、なんだかいろいろごちゃごちゃ考えていることがバカみたいに思えてきちゃうのです。「あれ、なんだか、自分、いろいろ言い訳してるな。あーこんなこと考えて、無駄だなあ、この分もっと違うことを考えることに時間を使うべきだったよな、そう例えば、今日の夕飯のおかずとかさ」なんて思えてきちゃうのです。

プチ・パヴィちゃんたちには、これからも、もっともっと多くの人に、その人が忘れちゃっているものを思い出させてあげるような音を届けて欲しいと思います。